NANA そうですね。でも意識だけじゃなくて、実際の社会がコミュニティの感覚を取り戻して、実際に声を掛け合って、助け合えるようになるといいですね。 ホピの村に行くと、こんな小さな家に一体、何人住んでるの? って感じで暮らしているし、友達の家に居ても、次から次へと、友達やら親戚やらがひっきりなしに訪ねてきます。犬や猫も・・・(笑)。どの犬も首輪をしてないから、どの家の犬なんだか、よくわからないんですよね。「あ、これ、隣の犬」とか言って、自分の家の犬は、遠くを指差して、「あっちにいるのがうちの犬」みたいな感じで、結局、どの犬も村犬?
北海道大学文学研究科紀要, 113, 31-64. ライター 笹田唯衣 記事掲載日:2021/06/04
死生学、という学問があることを知ったのは最近のことだ。それを教えてくれた人に「図書館にありそうな本を薦めてほしい」とお願いしたら島薗進の名前を挙げてくれた。死生学というのはドイツで始まり、ドイツの死生学者が日本に伝えたわけだが、日本における草分け的な存在が島薗進のようだ。ただ死生学とはいうものの、英語に直すと Thanatology (タナトロジー)もしくは Death Studies というようで死のほうが直接的に思える。そこでなぜ死生学と訳されるのか、そこに日本人に根付いてきた死生観という文字があるのではないか?
世界的な聖地・パワースポット、アリゾナ州セドナに住んで23年になる写心家・NANAさんは、セドナの大自然をガイドしながら、住んでいる人だけが触れられる四季折々の大自然の美しさを写真に収めています。実りの季節が終わった晩秋の時期は、ハロウィンやサンクスギビングなど生と死にまつわる数々の儀式が行われるそう。NANAさんがホピ族の友人に聞いた死生観は、日本人の死生観とどのように違うのでしょうか? 今年の10月はひと月のうちに2回満月が周って来るブルームーンとハロウィンが重なった。 ――秋も深まってきましたが、アメリカではハロウィンやサンクスギビングなど、秋にはいろんなイベントがありますよね?
それはとても悲しいことですね。もちろん、みんなそれぞれ、いろんな事情があるにしても、その根底には、人間中心の社会しか見えなくなっていることが大きな要因になっているように想います。ものすごく過酷な自然の中でも感謝して生きている人たちがいることを知ったら、死生観もガラッと変わるのではないでしょうか? 自分は自然の中で生かされているひとつの命なんだ、という感覚が欠落してしまうと、近視眼的になってしまって、自然も自分の命も尊重できずに行き詰まってしまうんじゃないでしょうか? ーー自然から切り離されているから、近視眼的になるんでしょうか? NANA それも大きい要因ではないでしょうか。あまりに人間中心の社会にいると、自分が自然から切り離されていることにも、近視眼的になっていることにも気づかない。 ホピのメッセンジャーのルーベンは「ホピの教えでは母なる大地に生かされているという謙虚さを忘れないことが大切だ。母なる大地のバランスが崩れたら自分のバランスも崩れてしまう。アタマで考えて生きる人が地球の問題を作り出している」と言っています。近視眼的になる、というのは、人智を超えた大いなる存在への謙虚さを忘れてしまった状態とも言えると想います。 ーー誰かが決めた人工的な枠の中でしか生きられない、と考えると苦しいですよね?
佐伯 もちろん、どんな社会においても、家族にとっては死にかけている人でさえ、いつまでも生きていてもらいたいでしょう。それに加えて、近代社会では、ともかくも「生きること」に価値が置かれるという一種の生命至上主義があります。さらに、家族であれ、安楽死を容認するのは、どこか人の生命を奪い、基本的人権に反することだという暗黙の了解があるからだと思います。 欧米の死生観というのはどんなものでしょうか?